bridge is paper



私の人生である、親は、子を思い人生は、石橋を叩いて渡る、そのくらい用心しても、用心しすぎる事はない、慎重に人生を渡りなさい、と、親は子に教える、私も石橋を叩いて渡れ、金はつかんだら離すな、そう教えられた。
が、なんとあさましい人生だ事、綱渡り、いやいやとんでもない、悔しいが私の運命なのだ。
九州の山奥に6軒ほどの小さな部落水道も、電気も、道路も無くただ、ただ静かな山村である。
水の確保といえば竹を二つに割った樋で山から何百mも、又これの管理が大変なこと樹の葉などで樋がふさがるから、誰かが毎日見にゆかなくてはならない、夜は怖いし、冬は寒いし、夏は蚊に刺されるし、冬ともなれば凍結して水が来なくなる、家の溜め水も凍りついている、氷を割ってその水で朝顔を洗わなくてはならない、いやだいやだ。
電気が無い為に、夜る家の中はランプ、外は提灯、これもまた、毎日ランプの玉磨きが大変、親は朝暗いうちから山仕事に出かけ暗くなって帰ってくる、それまでに終わらせておかないと、ぶん殴られるのである、ランプは灯台ではないが下は暗い、当時1燭とか、2燭とか言っていた(1燭は今の1W)電球だと下も照らす為、結構明るいがランプは横なので、物の位置がわかる程度、暗くなれば寝るしかない生活だ、私が5歳の頃だったか初めて電気が灯ると言う事で、夜7時座敷に座り家族でじっと待った事が有る、8時電気が初めて灯た瞬間です、10w、裸電球が一つ、灯った瞬間家の中に太陽でも落ちて来たかのような明るさ、大歓声です、一晩じゅう家の中を走り回った、今ではその10w見向きもしない明るさになってしまった。



道路がなく道とゆうより、ちょっとした登山道である、急な坂道で石はごろごろ、山間部の小川の水が無くなった状態と思っていただければいい。
そんな山道を2k程、要約道らしき道路に出る、之もまたひどい物で穴ポコだらけ、車も10k〜15kのスピードが精一杯、何とのどかな事。
当時、道路工夫と言うおじさんが居て、毎日高い処を削り、穴ポコを埋めていた、それでも一向に道路は良くならない、現状維持が背いっぱい、年に一回住民総出で道路整備をしていた。

藁ぶき屋根、そこそこの建物だ70cm程の大黒柱が真ん中にデーンとあり、縁側もある、部屋といえば居間、納戸、座敷、床の間の4つ、1間12畳ふすまを外すと一つの部屋になり大宴会も出来る仕組み、台所は今は懐かしい土間なのだ、30畳程、洗い場が有り釜戸が二つ3mほど離れて五右衛門風呂程の大きな釜戸が一つ、これは、みそ、こんにゃく豆腐、お茶などを作るときに使う。
30畳の中に四畳半程のみそ部屋なる部屋、その横に唐臼もある
なぜだか、座敷の横に2畳程のミシン部屋もある、道路も電気もない山奥ではあるが、父が戦争から持ち帰った無線機でラジオだけは聞けた、1日ほんの1時間程度、三つの歌、お父さんはお人好し、君の名は、連続灯台守、ピーピーガーガー雑音ばかり必死で聞いた物だ、さて、元屋の隣は納屋が有り牛、馬を飼っている。
元屋から20mほど離れてトイレ風呂場が有る、風呂は言はずと知れた五右衛門風呂、煙たい暑い、寒いなんでも有りでわないか
本業は、椎茸栽培、林業だ、椎茸を栽培している関係で五十m程離れて倉庫兼室なる建物が一棟、ここでマキを焚きながら椎茸を乾燥させる、二昼夜程かかる為交替で火の番、これが又怖いし楽しみでもあるのだ。
まだこの頃は五、六才真っ暗で物音もしない山間部、明かりと言えば釜戸の火の灯り、そんな中、何が楽しみかと言うと、室から持ち出した椎茸に、味噌を着けたり、醤油をかけて焼いて食べるのだ、これが又美味い事、今の世ならばそこまで美味いとは思はないと思うのだが、当時は、今みたいに何でも有るわけではなかった。
戦後とゆう事もあって、自給自足の生活ではないか。



今の世とは比較しょうがない食生活、ご飯と言うと芋飯薩摩芋がごろごろ、その中に麦がポツポツくっ付いている本当に芋のご飯でわないか、それも大量に作るため、朝、昼、晩と何日も続くのである一日過ぎると紫色、二日目真っ黒あまり頂く気にはならない、元々私は芋が嫌いな為、かなり苦痛な食卓、ご飯に限らずおかずにしても同じである、たいがい同じものが二ヶ月は続くでわないか、春になると、ふき、これも大量に仕込むために、日が経つにつれだんだん黒くなってくる、味は、黒くなった方がまし、四月に始まり五月末になると筍がちらほら顔を出してくる、だんだんと、ふきも姿を消し本格的筍攻撃の始まりだ、六月末になると筍も身長が伸びて掘らなくても良くなる、三mもなれば揺すれば柔らかい所から折れて落ちて来る、節と節の間の柔らかい所を食べるのである、もう、ここまで来ると筍と言うより、輪っかでわないか、それも緑色、これは竹に近い、パンダと違うぞ、これが終わると白菜、半分に割った白菜をゆがいた物が山と出る、これが終わるともう秋。
次は、漬物と、たくあん攻撃の始まりだ、この頃になると柚子が出てくる、漬物も柚子を絞るとけっこういける、何日もつずくのがきつい、こうして一年が過ぎ二年が過ぎ小学生になる。
(当時のレシピー、芋飯、薩摩芋10麦0.5、粟飯、粟10麦1、栗飯、栗10麦2、白飯、米3麦7、豆飯、山菜飯、種類は多いが、ご飯と言うより素材そのもの、たまには、ねり餅、蕎麦粉をお湯でねり醤油を付けていただく、不味い、へこ焼き、小麦粉に芋や、栗など入れて焼いたもの、美味しいと言える品物はほとんど無い、空腹を満たすだけ、食卓の素材は多い、無かった物は、海の幸、年に1〜2度イワシ、めざし、いか、たまに味噌汁にだしじゃこが行っていた、そのじゃこも自分で食べる事は出来ない、おじい様に渡さないと、いきなりゲンコツが飛んでくる。
ほとんど、一品料理、大きな器に白菜のお浸しが一山、たくあんが一山、唐辛子の葉っぱの炒め物が一山、筍の煮つけが一山、こんな少年期を過ごして来たのであります。


学生
通学がこれまた大変で、30分程かけて山道を下ると、道路に出る、この道路が又凄い砂利道で自転車もろくに走れない、そんな道を、下駄、又は、藁草履、鼻緒は切れるし夏は汚れるし、冬は冷たいと来たもんだ。
冬に下駄ばき、歩けたものではない、歯の間に雪が溜まり、くりくり、すぐに鼻緒が切れる、切れたら縄で足に縛り付け、通学した事もしばしば、小学3年の頃、我が家が元家と分家して、農協支店を始めた為、下の道路脇に引っ越したから幾分楽になった、とは言え学校まで1時間、バスも電車も無い。
ただただ、歩くのみ、でもまだいい方だ朝4時に家お出て来る人もいた、週2日程学校に来ていたかな。バスと言えば、小学校の前まで1日3本、ボンネットバスが来ていた、当時は綺麗なバスガールが乗っていて、切符拝見とか言いながら、鋏おカチカチやってたな〜
中学生になった頃には、道なんか歩いた事が無い、山、川、田んぼ、木から木にロープを張って、そこを、渡ったり、通学途中何でも取って食ったよな〜
梨、栗、もも、きゅうり、大根、キャベツ、ニンジン、薩摩芋、トマト、西瓜、米、琵琶、手当たりしだい取って口にしていた、我が家から学校までの間で、柿なんか赤くなった事が無い、今故郷へ帰ってみれば至る所に真っ赤に熟した柿がたわわに実っている、当時の大人は寛大であったと、つくずく思う、今、当時みたいなことをしたなら、大騒ぎになる、辛くともいい時代だった。
学校帰り山中で大きな枯れ木を見つけ、上って見ると祠が有りその中にフクロウの雛、まるで白兎みたいに真白,何と可愛い事、早速持ち帰ったが、これが又大変だ、朝5時に起きて田圃へ行き、餌のカエルを30匹程登校する前に与えなくてはならない、学校が終わり飛んで帰つて見れば、お腹が空いた、餌をくれ、とばかり、けたたましく鳴くのである(キチイーキチー)宿題なんかそっちのけで餌探し、夜中も餌探し、したこともある、餌はなんでも食べる(蛙、蛇、トカゲ、小鳥、ネズミ、魚、ミミズ)。
続く


(蛙、ミミズ、蛇、ネズミ、トカゲ、魚、肉、小鳥)とてつもなく食欲がある。
フクロウは夜の鳥と思っているが、あれは餌をとる為の物で、昼までも活動する、とても頭のいい鳥だ。
夏を過ぎた頃、飛べるようになった、餌もいつの間にか自分で捕るようになり、あまりねだらなくなって来た、自分で捕獲するのが楽しいのであろう、大物を捕獲した時などは、見せに来るではないか、ある時、兎を捕まえ持ってきた事もある。
私が、出掛けると、必ず付いて来ていた、当時の私は、勉強はそっちのけ、教科書は学校に置いたまま、当然宿題などした事が無い、カバンの代わりに、ナップサックに弁当箱だけ、ま〜 良くここまで自由にさせてくれた物とおもうが、父にしてみれば、30過ぎまで、戦争、戦争で自分の自由が無かった、そのためだと思うのである。
勉強しなさい、知識だけでは苦労する、学問が人生のほとんど左右する、勉強するなら今しか無いだから勉強しなさい、と、良くいっていたが、強要した事は一度も無い。
そんな父の話に耳も傾けず、遊びつずけた愚か者である、ある日の事、学校に行こうとすると、フクロウがナップサックをつかんで離さないではないか、しかたなくナップサックをそのままに学校え行くと、校庭の上空を私のフクロウが旋回している、、足には何か持っている、呼んで見ると、何かを落とした、私の弁当ではないか、かなりの高さから落としたので、弁当もグチャグチャ、お袋に、こっぴどく叱られた。
翌日わざと、家の前に弁当を置いて学校え行くと、やはり、持って来たが空高くから落下ではないか、それから毎日のように運んでくれたが、弁当箱が悲惨です、グニャグニャ、アルミなので、ある程度は修復できるのだが
度重なる、落下で悲惨な状態、ふたをしても中身が見えている、それでもお袋は新しい弁当箱を買ってはくれなかったし、欲しいと思った事も無い、当時、良く野原で昼寝をした、フクロウも、いつも私の頭の横で寝ていた太陽が眩しく、顔を覆うと、羽根で日陰を作ってくれた事もある。
そんな、かけがえのない、私の相棒に、ある日、魚の行商人が塩鰯を与えたので、あっけなく旅立ちました。
新たに、雛を見つけ、育てようとしたが、餌やりが大変なので、山につないでおけば、親鳥がえさを与えてくれるので、朝、山へ放し、夕刻迎えに行く、幾日か経った頃、親鳥に襲撃され頭にかなりの重傷を負った事もある、今でもその傷跡は残っている。
こうして勉強とも段々縁が遠くなり、私の人生の転換期
就職
この当時、中卒者は金の卵とか、もてはやされて、私も、自動車整備工として就職したが、いきなり無学を思い知る事になった、そこで、定時制高校へ通うことにしたが、これまた、私にとって簡単なことでは無かった。
三学年の夏、故郷へと足を運んだ、(父が地連の役員をしていた関係、父の勧めもあって自衛隊に入隊することになった、その頃、たまたま里帰りしていた中学の級友に合った、話を聞けば南洋航路の船員とか、話を聞くうちに外国に興味が出て来た、一度外国も見て観よう、就職前の旅行とばかり、同船する事にした、3日後出港である(パスポートが無い、さぁ〜どうする級友が言うにはパスが無くても大丈夫との事だ)、さつそく、手荷物まとめ横浜え出発、着くなり船室え案内され明日までここから出るなと言うのである、通関を抜ける為であった、翌日午後いよいよ出航だ、材木運搬船、目的地南の国ラバウル、(当時ラバウルが、パプアニューギニアとは知らなかった、その後何年か経ってニューギニアである事を知った)、ラバウルで材木を積み込み1週間後の帰航との事、級友の船員手帳の写真だけ張替ラバウルの散策えと出かけた、熱い、なんじゃこれは、むぅ〜わぁ〜じりじり、ヒリヒリ、たまらず木陰で一休み、木陰はムンムンはするがそれなりに涼しい、(さらばラバウルよ又来るまでは)鼻歌を唄っているとおじさんが、日本語で話しかけて来るではないか、こんなに遠くまで来ても、日本語かよ〜。
話を聞けば、以前は日本だったとか、あいゃ〜何と無学で無知な事、そうして、このおじさんに色々教はり、2〜3日お世話になる事にした、ラバウル滞在期間の話は後日と言う事で→{  }。
1週間も過ぎ、帰航です、途中フィリピン、マニラ港に2日間入港、船を抜け出しマニラ見学、ここでは言葉が通じません、聞いた事も無い言葉です、通貨もペソだとは知りませんでした、円ではバナナも買えません。
急ぎ、港へ帰り両替、窓口え一万円出すと、何と、一掴みはあろうかと言う程の札を渡すではないか、あぃやぃやぁ〜たまげたな〜、ポケットにねじ込み、いざ出発、港前から適当にバスに乗りいつの間にか居眠り、フィリピンも暑い汗だくになり目が覚めビックリ、なんにも無い山道をガタガタ走っているではないか、5〜6軒程の部落が見えて来たとりあえず、降りて観る、なんにも無い、家の方え行って見る(家と言うよりダダの小屋、地元の人には立派な家なのだ)前まで行くと子供が3人寄って来て、何やら話しかけて来る、さっぱり分かりません。
日本語で応答すると家の中えと飛んで逃げるではないの、向うの畑からじい様らしき人がジーッと見ている、じい様の方え行くと今度は、じい様が鍬を振り上げるではないの、それでも近寄り札を3枚ほど差し出すと鍬を下した、話しかけて見るが言葉が通じない、困りましたしばらくすると変な英語で話しかけて来る、これなら何とかなる、ここは何処かと尋ねて見るがなかなか話が前に進まない、場所が分からない、マニラに帰りたいと伝えて見る、明日で無いとバスは来ないとの事、一晩泊めてくれとお願いすると、日本人は嫌いだがしかたない寝るだけなら構わないと言う、そこでバナナの植樹を夕刻まで手伝う事にした。
寝るだけとの事であったが、味も素っ気無いお粥を御馳走してくれた、翌日9時30分バスと言うより、ボロボロのトラックが来た、これに飛び乗り一路マニラえこれがまた、無学が身に染みた、自衛隊から、大学、思うに任せず、自衛隊を除隊(他にも理由は色々ある)学業に専念と思ったのだが、これまた、資金が付いてこない、トラック運転手しながらの学生生活
25才で、何とか、社会人の仲間入り、それからと言う物、天国と地獄を行ったり来たり、そうして、今又地獄をさまよう生活、何より愛おしい、我が子とも離れ離れ、逢うことも適わぬこの身なれど、子供と暮らせる日を、心に秘めて地獄をさまよい、格闘しているのです。
就職後の人生
少し後戻りするが、大学2回生の頃、お金になる仕事があるからやらないかと言う誘いがあった、話を聞けば,日当2万円と言うではないか(当時サラリーマンの月給が7〜8万円)飛びつきました。
仕事先は熊本県の山の中、私が通う大学は福岡市であったが2も無く飛びついた、仕事は、地下発電所建設の作業員、山の中をくり抜いて、そこえ、発電所を作る仕事だ、お金も良いけれど、仕事も半端ではない、疲れる、眠たい、それでも我武者羅に働いた、少しでも早くお金を貯めて、学校へ帰りたかったから、4〜5ヶ月後には、頑張りを認められ、現場責任者になっていた。
日当も5万5千円、辞めるに辞められなくなつた、お金も十分に出来たので(組)に辞めると申し出た処辞めてもらっては困る、週、2日で良いから現場に顔を出してくれ、月給で80万円でどうだと告げられお金に引かれて、承諾することにした、今までは電車賃が無く、15`徒歩で通学したこともしばしば、それが何とエアコン付きのクラウンで通学できるようになった(当時はエアコン車はほとんど走っていない時期)いやいや、女の子には不自由しなかったな〜良くもてました、私ではなく、多分車がもてたのだと思うけど、そうこうして要約25歳でめでたく卒業となり、そのまま大手建設会社のトンネル部門へ入社と同時に、熊本の現場から良く遊びに出ていた、八代で知り合ったかなり年上の女性と結婚、2人の子持ち女、皆に反対され、それでも強硬、その後仕事も順調、1年後には、トンネル特殊班として独立新幹線の関門トンネル、徳山トンネル、田川トンネル、その後、熊本県の佐敷トンネルの予定だったが九州新幹線工事が一時延期になった、工事が始まるまで休業、処が、工事は延期、延期で、50人もの従業員が居ては、見る見るお金も底をつき解散と相成りました。
機材を処分して皆に分配、御引取りを願う事に、それまでは親父さん、親父さんと、すり鉢も割れんばかりにすり回っていたのに、我が家の前を通っても素知らぬ顔で通り過ぎて行くではありませんか。
これが、人間です、その後はしばらく、生活苦で地獄です、やむを得ず、家内の故郷である長崎え移り住み、鮮魚車の運転手として大洋漁業に入社、上りは、鮮魚、帰りは成果物を積んで日本中を走り回る、家に帰るのは、月に1〜2度、1日で、1000km以上走る事もしばしば、年末など余りの忙しさで荷降ろしの最中、少し作業がストップすると、荷物を抱え立ったまま寝ているではないですかこんな生活を2年余り、少し小金が出来たので、家族を連れて、大阪えと移り住んだ。
工事中




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